生きるための・・・。
私は我侭だ。
常に誰かに愛されていないと生きている感覚がしないのは誰でも同じだろうが。
私の場合、誰かに愛されていると同時にまた別の誰かから憎まれていないと生きている感覚が薄れていく。
愛されたいが、憎まれもしたい。
互いに愛し合いたいが、憎み合いもしたい。
守り守られる存在があって、牙を向け合える相手が居る。
そんな状態が最も愉しい。
誰を愛そう、愛されるかな?
誰に憎まれよう、憎めるかな?
愛を見つけるためなら真正面から全力でぶつかり。
憎しみを見つけるためなら幾らでも喜び進んで悪者にでも何にでもなろう。
そう思っていた。
この時点で私はもう、どこかおかしかったのかもしれない。
愛の安定の対象は、家族であり友だった。
いつまでも心に在り続けてくれる、良き家族であり友だった。
困ったのは、憎しみの安定の対象の方だった。
どんなに許せない悪事を誰が私に嗾けようと、憎む思いは時間が消し去って行った。
どんなに許されないであろう悪事を私が誰に嗾けようと、憎まれている思いは確認出来なかった。
一番の原因は、私にとっては重大な事でも、相手にとっては大した事ではないと捕らえられる、感覚や考えの違いだった。
誰から見ても一目瞭然、あからさまに憎まれる対象と言うのは、私の知る限り大犯罪者や殺人者位のものだった。
どちらかと言えば恐らく小心者の私にはそんな事をする勇気はもちろん無かった。
それを実行すれば、今まで愛していた人にまで相手にされなくなるのをきっと考えるまでもなく本能で知っていたから。
ある時、この、愛されたい、憎まれたい、曖昧な感情に愚かしいと罪悪感を覚えるようになった。
これだ、と直感した。
その時から、私は自己嫌悪にひたすら縋りつくようになった。
そう、憎むべき矛先を向ける相手が私自身ならば、他の考えに左右される事無く、責めている事を誰からも許される事は無い。
私が私を許すその日までは。
リストカットや自殺も多く試みるように努めた。
ただ、肉体的に、ではなく、精神的に。
肉体的に責めると、血が流れる、跡が残る、最終的には本当に死んでしまうかもしれない。
私が私を殺めてしまう事も、殺人となんら変わりは無い様に思えた。
ほんの少しの些細な嘘をつき、自作自演をしては人間関係を構築した。
友達だって、選り好みせず誰とでも上手くやって行ける。
この人と一緒にいると楽しい、この人とは何だか相性が合わない、なんて考えはどうでも良かった。
「あなたは本当の私を知らない。」って台詞は、何の意味も持たなかった。
私は私が嫌い、惜しみなく憎める唯一の存在、本当?それって何?
私にとっては、個性を押し殺してどうにでもなれと自暴自棄になる事が、精神安定剤だった。
もし、少し行き過ぎて肥大化して膨らんで張り詰めれば、ふと現実に戻ればいい。
そこには温かい家族も、友人もいて支えてくれる。
安心して、もっともっと、酷い目に遭えばいい。
何度ものリストカットであり、何度もの自殺だった。
「感性が無駄に鋭いからこそ、それだけに精神が相当脆い。」
と、他の人の目から見てもそう言われる程に私は敏感らしかったので、この方法は大成功を収めた。
それはどんどんエスカレートして行き、事あるごとに私はこの自虐心に逃げ込んだ。
私一人だけがこの世にポツリと取り残されたような薄暗闇の夜は何とも言えない心地良さに襲われた。
しかしその精神安定剤に慣れてくると、感覚が麻痺したかのように何に対しても涙が出なくなった。
皆で協力して何かを成し遂げた時
感動できると話題の映画を見た時
過ちを犯して誰かに責められた時
全部。
気持ちは存分に揺らぐのだが、一滴も零れ落ちる事は無かった。
「ペットが死ぬと飼い主が泣くのは、死んだペットが可哀想だと思って泣く訳ではなく、取り残された自分が可哀想で泣くのだ。」
恐らく、誰かが呟いたその言葉が強く頭の中に残っていたからではない。
恐らく、憎しみが悲しみを薄れさせると言う事が、身近に感じ取れる様にまでなって来たと考える方が正しい。
涙を失って初めて、今更過去に引き返せない事を実感したここ数年間。
未だ、もはや麻薬の様になってしまったこの精神安定剤の呪縛から私は私を解き放ててはいない。
あぁ、多分これから先も、同じ事を繰り返すんだ。
考え方一つで、どんな風にでも生きられるのにな。
そうして色んな物事がだんだん捻じ曲がって見えて来る世界も一興だけどね。
生きるって・・・面白い。